日本憲政の父 板垣退助
日本憲政の父と称される板垣退助の年表。武士の家系に生まれ明治維新で活躍して政治家となり、自由民権運動を主導して人民に「自由」を普及させた。また、欧米人からの有色人種排斥に抗議しアジア人の団結を呼びかけた。1953年からの20年あまり百円紙幣として肖像が使用された。
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| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 1837 | 土佐藩(現在の高知県)に生まれる 武士の中でも最上位に位置する上士乾家の嫡男。幼名は猪之助(いのすけ)で後に退助と改める。坂本龍馬や武市瑞山の親類にあたり、龍馬が1つ上、瑞山が8つ上。坂本龍馬とは生涯交流はなかったそう。 |
| 1840 ~ 1850年代 | 居合剣術 無双直伝英信流と柔術 呑敵流を習う 青年時代は幼馴染みの後藤象二郎らと喧嘩に明け暮れ、土佐藩から度々譴責を受けた。武術に長けていた反面学問が苦手だった。 |
| 1850年代 | 林政敬の孫娘と婚姻 名前をはじめ詳しいことがわかっていないが、後に離婚。 |
| 1856 | 喧嘩して神田村にて謹慎処分(謫居) この事件がきっかけで廃嫡(家督相続の権利を喪失)されるも後に許されてことなきを得る。この間庶民と分け隔てなく接したことが後の自由民権運動につながった。さらにこの間兵法書「孫子」を独学した。軍事の才能はこの頃磨かれた。 |
| 1859 | 小谷正臣の娘 鈴と婚姻 これ以前に親族 中山弥平治秀雅の次女とも婚姻・離婚しており、鈴は3番目の正妻。死別するまでの四半世紀を共に過ごす。 |
| 1860 | 廃嫡処分を恩赦され家督を相続 藩政に復職して免奉行(税務官)を務める |
| 1861 | 江戸へ出向 江戸留守居役兼軍備御用として出向 |
| 1862 | 上洛した藩主 山内容堂の御側用役となる 攘夷論を唱え始めるものの武市瑞山らの急進的な土佐勤王党とは対立する |
| 1863 | 坂本龍馬の脱藩を赦すことに尽力する 容堂が勝海舟を招き協議。 |
| 1864 | 土佐に戻り町奉行に就任 前年夏以降に土佐藩内で尊王攘夷に対する弾圧が始まり失脚した退助は中岡慎太郎と国策を練った後に土佐へ戻った。中岡は脱藩して長州へ。 |
| 1865 | 大監察を兼任して武市瑞山らを取り調べる 取り調べが激化した際に退助は武市を救おうとしたため「不念の儀あり」として大監察を解任され、その後 武市瑞山は切腹となる。退助は後に武市瑞山らへの名誉回復に努める。 |
| 1865 | 江戸へ洋式騎兵術修行へ出る 江戸で幕臣の騎兵頭らからオランダ式騎兵術を学ぶ。 |
| 1867 | 薩土倒幕の密約を結ぶ 土佐への帰藩途中に中岡慎太郎の仲介で京都にて西郷隆盛と会見した際に結んだ。土佐に戻ると銃隊を主軸とした兵制改革を行った。しかし後藤象二郎が大政奉還論を唱えると土佐藩はそちらに舵を切り退助は再び失脚。この年の11月に大政奉還が成された。 |
| 1868 | 戊辰戦争に参戦 2月に失脚が解かれ大隊司令として出陣。高松諸藩を追討して京都に入り東山道先鋒総督府参謀となる。この時に板垣を復姓し板垣退助と名乗る。11月に帰藩。後に西郷隆盛に「日本の中で海外と戦うことが出来る人間は板垣退助しかいない」と言われるほどの軍才があった。 |
| 1870 | 土佐藩の大参事として藩政改革を行う 国民皆兵と四民平等。その他 旧幕臣を軍事顧問として土佐藩に迎え入れフランス式練兵などを行った。 |
| 1871 | 新政府の参議に任命される 戊辰戦争での活躍を評価されたため。板垣は富国強兵を国策に掲げ御親兵を創設し廃藩置県を行うための軍事力を確保した。 |
| 1872 | 清子を権妻とする 1874年に清子は病死(享年20) |
| 1873 | 征韓論を主張するも敗れ参議を辞任 西郷と共に辞任。世論は征韓論を支持しており600人もの官僚が辞職した。(明治六年政変) |
| 1874 | 後藤象二郎らと愛国公党を結成 民撰議院設立建白書を政府に提出するが時期尚早と却下される。これ以降 自由民権運動を始め、高知に戻り立志社を設立する。全国展開を見据え大阪の愛国社設立にも奔走する。 |
| 1875 | 再び政府参議となるも半年で辞任 |
| 1881 | 自由党を結成して総理となる 急進派を抑えることができず1884年に板垣の意向で解散 |
| 1882 | 岐阜県で演説中暴漢に襲撃を受ける(岐阜事件) 自由民権運動反対派の相原尚褧に短刀で7ヶ所を刺された退助が言った言葉が後に「板垣死すとも自由は死せず」として広まった。一命をとりとめ医師 後藤新平の治療を受ける。この事件をきっかけに「自由」という言葉がバズる。 |
| 1883 | 後藤象二郎らと欧州を視察 明治六大教育家の1人森有礼の斡旋により適者生存で知られるイギリスの学者ハーバート・スペンサーらと会談した。スペンサーとは口論となり喧嘩別れする。この視察旅行で板垣が購入したルイ・ヴィトンの鞄は「日本人が購入したルイ・ヴィトンの鞄で現存する最古のもの」として保管されているそう。 |
| 1885 | 正妻 鈴が死去(46歳) |
| 1887 | 伯爵を叙爵 これによって華族となるが、四民平等を唱えてきた板垣は二度栄典を辞退。周囲の再三の説得によって叙爵した。 |
| 1887 | 国会開設、言論の自由、海軍拡張などに関する意見書を提出 この後高知県に籠る |
| 1889 | 岐阜事件の特別恩赦を受けた相原尚褧と面会する 板垣は相原に対する助命嘆願書を自ら提出し特別恩赦が認められた。相原は板垣に感謝と謝罪をして北海道開拓へ出発するもその途中で失踪する。失踪理由は諸説あり。 |
| 1889 | 福岡孝弟の養女 絹子と婚姻 元権妻でこれによって4番目の正妻となる。 |
| 1890 | 旧自由党各派を統合して立憲自由党を結成し総理に就任 1897年に総理を辞任。 |
| 1896 | 第2次伊藤内閣の内務大臣となる 続く第2次松方内閣でも内務大臣を務める。 |
| 1898 | 対立していた大隈重信と共に憲政党を結成 日本初の政党内閣である第1次大隈内閣(隈板内閣)の内務大臣として入閣するも4ヶ月で内閣総辞職となる。 |
| 1900 | 政界を引退 |
| 1904 | 機関誌「友愛」を創刊 |
| 1914 | 台湾を訪問し台湾同化会の設立に携わる 日本統治時代の台湾人と日本人の親睦を深め、同化をはかることを目的とした民間団体。台湾人にも日本人同様の権利待遇を与えることを趣旨としていたものの、台湾総督府は危険視して板垣を追放、会を強制解散させた。今日ではこれは台湾史上初となる「台湾議会」の起源とされる。 |
| 1919 | 肺炎で死去(83歳) 退助の嫡男・板垣鉾太郎は退助が政界引退後に唱えてまわっていた一代華族論を尊重し自ら廃嫡。華族の栄典を返上した。 |