細菌学の父 北里柴三郎
日本の医学者・細菌学者 北里柴三郎の略史年表。日本細菌学の父と称され、ペスト菌の発見や破傷風の治療法を開発するなど感染症医学に貢献した。研究所の門下生らには「ドンネル先生」(ドンネルはドイツ語で雷オヤジの意)との愛称で畏れられると共に親しまれていた。2024年度から日本の新千円紙幣に肖像画が使用される。
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| 西暦 | 出来事 |
|---|---|
| 1853 | 肥後国(現在の熊本県)農民の家系に長男として生まれる |
| 1861 | 漢学者の伯父から四書五経を学ぶ 四書五経は儒教の経書の中で特に重要な書物のこと |
| 1869 ~ 1870 | 熊本藩の藩校時習館に入寮 1870年に廃校。1871年熊本藩が廃藩置県によって熊本県となる。この頃は軍人または政治家を目指していたそう。 |
| 1871 | 熊本医科大学(現在の熊本大学医学部)に入学 同年、教師としてマンスフェルトが赴任して北里に目を留める。北里は夜間にマンスフェルトから語学を学ぶ。彼の影響で医師を志すようになる。 |
| 1875 | 東京医学校(現在の東京大学医学部)へ進学 教授らと不仲で何度も留年する。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信する。 |
| 1883 | 松尾臣善の次女 乕と結婚 在学中のアルバイト先で知り合ったそう。 |
| 1883 | 卒業して医学士となる 内務省衛生局へ就職 |
| 1886 | ベルリン大学へ留学 長崎で発生したコレラの調査で評価されたため。在学中 のちに「近代細菌学の開祖」と称されることとなるロベルト・コッホに師事して功績を残した。 |
| 1889 | 破傷風菌の培養に成功 |
| 1890 | 破傷風菌の抗毒素を発見し、血清療法を確立 血清療法は菌体を少しずつ注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法。 |
| 1890 | 血清療法をジフテリアに応用して論文を発表 同僚のベーリングと連名で発表し、ベーリングはこの功績で1901年にノーベル生理学・医学賞を受賞するが北里は候補にあがったのみだった。この件に関して人種差別を理由とする証拠は見つかっていない。 |
| 1891 | 医学博士の学位修得 |
| 1892 | 日本へ帰国 留学中の功績から欧米各国の研究所からオファーが多くあったものの、日本を伝染病の脅威から救いたいと全て断り帰国。しかし東大教授 緒方正規と脚気菌をめぐって対立したことから東大と対立し孤立無援となってしまう。 |
| 1892 | 私立伝染病研究所を設立し、初代所長に就任 学界に絶大な影響力を持つ東大と敵対した北里に唯一手を差し伸べた福澤諭吉の多額の資金援助によって設立が叶った。この時 福澤57歳、北里40歳。 |
| 1893 | 伝染病研究所を移転 この移転先で東大総長 渡辺洪基とその地域に住む近隣住民らによる妨害を受けるが、これも福澤諭吉の支援によりことなきを得る。 |
| 1894 | 政府からペストの蔓延していた香港に派遣され、ペスト菌を発見する 同じ頃に東大から青山胤通が派遣されていたがペストに感染してしまう。青山は一命を取り留めて帰国する。 |
| 1899 | 私立伝染病研究所が国立伝染病研究所となる 国から支援を受けて内務省管轄となった。以降、研究所には研究員が増えていった。この頃 野口英世も本人の強い要望によってこの研究所へ勤め始める。 |
| 1906 | 日本連合医学会会頭、帝国学士院会員に任命される |
| 1906 | 伝染病研究所を白金台に移転 これが後の東京医科学研究所となる。 |
| 1909 | 第2回ハンセン病学会に出席(ノルウェー) 集合写真ではハンセン病を引き起こす「らい菌」の発見者 ハンセンの隣に座っている。草津温泉での疫学調査、オランウータンを使った実験などを発表した。 |
| 1913 | 日本結核予防協会を設立し、副会頭に就任 |
| 1914 | 伝染病研究所の所長を辞任 政府が北里に相談なく伝染病研究所の所管を文部省に移管し、東大の下部組織にする方針を示したことへの反発から。所長には香港でペストに感染した青山胤通が就任。 |
| 1914 | 私費を投じて新たに北里研究所を設立 北里を慕って志賀潔をはじめとする多くの職員が伝染病研究所を一斉に辞任した(伝研騒動)ためその受け口として。 |
| 1915 | 恩賜財団済生会芝病院(現在の東京都済生会中央病院)を設立し、初代院長に就任 |
| 1916 | 大日本医師会が設立され初代会長に就任 大日本医師会は1923年に日本医師会となる。 |
| 1917 | 貴族院議員に勅選 |
| 1917 | 慶應義塾大学医学科を創設し医学科学長に就任 1901年に亡くなった福澤諭吉の恩義に報いるために自ら進んで就任し、終生無給で発展に尽力した。1920年に医学科は医学部となる。 |
| 1921 | 赤線検温器株式会社(現在のテルモ)を創業 |
| 1924 | 男爵の爵位を叙爵 |
| 1928 | 慶應義塾大学医学部学部長を辞任して顧問に就任 |
| 1931 | 脳溢血により麻布の自宅で死去(78歳) |
| 1931 | 勲一等旭日大綬章を受章 亡くなった同日に没後追贈。その他1892年の勲三等瑞宝章(1906年に勲二等)、1919年の旭日重光章をはじめとして多数の日本勲章を受章している。外国勲章では1909年プロイセン王国星章赤鷲第二等勲章、1910年ノルウェー王国サンオラフ第二等甲級勲章、1914年フランス共和国レジオンドヌール勲章を受章。 |